春だし、思い出ポエム
40時間くらい起き続けていて、しかも春なので、ちょっと、とてもぼんやりした話を。論旨が自分でもよくわからないし、以下に登場させる人に読んでもらって色々ツッコミをもらいたいだけかも。
デカルト座標って、中学生の時から納得いかなかった。わかった、そのように扱え、というルールはわかった、でも何故?その概念はどのように存在してるの?と考えると、納得できなかった。納得できないことをさせられるのがとても嫌いだったので、気持ちが悪かった。身近に数学がとてもできる大人がいたので彼女に訊いたが、話が全く噛み合わなかった。彼女は、"数学はただの遊び!こういうルールの場所を仮定しましょう、そうしたらその中ではこういうことが成り立ちますね、というだけのこと!"の一点張りだし、私は彼女の前でイライラして頭をかきむしって怒りながら泣いたりしていた。手当たり次第に訊いて回ってみても、質問をうまく伝える事もできないので、お互いに苛々して終わり。当時哲学が好きだったので、私を飛び越えて哲学を非難されたりして本当に彼女が憎いと思ってみたりと、とても楽しかった。
最近分かった、要は多分デカルト座標だけじゃなくて、幾何学が嫌なんだ。幾何学そのものの考え方が分からない。(そして多分そんなものは、何千時間の無意味な操作の結果、後から分かるものなんだろうと思える。)そして、そういった単純な操作そのものに萌える感性は多分私にはない。
生物でも、最初の細胞の構造の、半透膜の浸透圧のところで、圧力って何!って怒り狂っていたし、その辺りを納得する術を与えられていたらよかったんだけど。(そして、リファレンス能力が皆無だった。自分で調べるという習慣がなかった。せいぜい与えられた本と辞書で調べるだけ。かわいそう。)
複雑で量と深みのあることなら何でも、学び取る時には、理解は一転二転三転するようにカリキュラムができていて、はじめは粗すぎる理論を与えられるものなのだろうけど、そしてそれは、ヒトという構造物に恐らくとてもよく合っているメソッドなんだけど。その事実だけでも知りえていたらまた違ってきたと思う。
つまり何が言いたいかというと、ちょっと量の多さが見えてきた、簡単すぎて粗すぎる、うまくいく理論に逃げ込みたい。急ぐ必要はない、楽しい時が一番能率上がってるんだし。